イラク、シリア、そして、パリ。人びとの悲しみや怒りが、紛争や暴力となって新たな憎しみを生んでいる。現地ではなにが起こっているのか。
ジャーナリストの玉本英子さんは、約20年間、アフガニスタン、イラクやシリアなど中東の紛争地を映像で取材してきた。テレビの現地レポートや新聞への寄稿、講演会などで現地の様子を伝えている。玉本さんが追っているのは、そこで生活する人々の姿だ。
きっかけはドイツ政府への焼身抗議のニュース映像
子どもの頃から絵が好きだった。少しでも絵に関われる仕事ができればと、神戸の大学でグラフィックデザインを専攻。卒業後は、デザイン会社で製パン企業のポスターやチラシを作った。バブル後期に苦労なく希望の仕事に就き、友人にも恵まれた楽しい日々。
きっかけは1994年。テレビで偶然流れたドイツでのデモのニュース映像に釘づけになった。クルド人の移民男性が自分の体に火をつけ、機動隊に突っ込んでいったのだ。トルコでのクルド人抑圧に対し、トルコを軍事支援していたドイツ政府への焼身抗議だった。「なんであんなことしたのかな」。答えを求めて半年後、友人を頼りアムステルダムへ飛んだ。
クルド人の集まるカフェに通い、話を聞いた。働ける場所がない彼らは、一日中お茶を飲んで、新聞を読み、おしゃべりをしながら過ごしていた。ある日、カフェを訪れた火傷の男性に、玉本さんは驚いた。「あ、テレビで見た人だ!」。全くの偶然だった。すぐに駆け寄り、あのときの理由を尋ねた。
私の故郷に行けば、君も同じことをするよ。
彼の故郷に行かなきゃいけない。行き先は、トルコ南東部ディヤルバクルだ。
初めての取材。自分の身近にはなかった出来事との出会い
まだ、インターネットも普及していない時代。お金、カメラと自宅の住所を書いた名刺を持って、まずイスタンブールへ。情報はすべて現地で調達した。
ホテルもどこに泊まればいいか分からなくて。ほんと素人だったから(苦笑)。
玉本さんの力になったのが、人権団体やクルド人向けの新聞を発行する出版社の人たちだった。クルド人は、トルコ、イラク、イランやシリアなど中東の各国に広く生活する、独自の国家を持たない世界最大の民族だ。各国で少数派民族として虐げられ、ディヤルバクルは当時、独立を求め運動が起きていた。公安や警察の取り締まりが厳しく、玉本さんは観光客の振りをして訪れ、人々の話を聞いた。
電気拷問で爪が真っ黒になったパン屋のおじいさん、息子が連れて行かれ殺されたかもしれない家族。クルド人のゲリラグループに協力した家族や親戚を持つ人々が、トルコ軍の被害に遭っていた。また、3,000の村が焼き討ちに遭っていた。
やはりすごくショックで、どう受け止めていいか分からなかった。みんな私が外国から来ているので、伝えてくれると思って辛い話をしてくれた。単に「知りたくて」行っただけの自分を恥じましたね。
伝えてほしいと思っている人たちの所へ行ったのだから、伝えることをやろうと心に決めた。
派遣社員をしながらジャーナリストに。コソボ、アフガニスタン、イラク、シリアへ
写真と映像を撮り始め、「撮るだけではなにもならない。視点を持たないと」。そういう当たり前のことに気づいていった。原稿を書いた経験もなかったが、ノンフィクション賞の受賞経歴のある知り合いに文章を見てもらいながら経験を重ねた。
雑誌に初めて載ったときは感激した。自分が書いたものを目にする人がいるんだって。
仕事を辞め、派遣社員で取材費を稼いだ。受付嬢、シンクタンクのアシスタント、なんでもやった。お金が貯まると3カ月は海外へ。ディヤルバクルは公安の取り締まりが厳しく、長く滞在できないためアムステルダムから通い、クルド人の取材を重ねた。通ううちに友だちができ、言葉や文化を学んでいった。
1999年、ジャーナリストの故・山本美香さんから、コソボ紛争の取材をやらないかと頼まれた。
やりますよ! って言って、すぐ行きましたね。コソボのこと、よく知らなかったけど(笑)。
ほかの場所でも取材ができると自信がつき、その後はレバノン、アフガニスタンへ。イラクは2001年から毎年出かけ、2004年からはシリアへも活動の幅を広げた。
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