【連載】マテリアルガールの東京男女観察

純愛に憧れる価値がない理由

A Picture of $name 滝沢 ケイコ 2016. 12. 9

功利的でリアリスト。物質至上主義なマテリアルガールたちは、富、地位、名誉が大好き。それらを手にしたときに浴びせられる人々からの羨望を糧に生きている。

その欲求を満たすには絶好のフィールドである東京で、彼女たちはいかにして「利益」を勝ち取っているのだろうか? また、その先になにを見ているのか……。

この連載では、なかなか語られることのない東京マテリアルガールのホンネを紹介していく。

純愛。純粋な愛。

ドラマや映画で中高生が主人公の場合は、必ずと言っていいほどテーマになる純愛

もうすぐクリスマスですね……。

もうすぐクリスマスですね……。

また、私たちはそのようなものに出会ったとき、必ずと言っていいほど、こういうリアクションを取る。

「もうそんな恋できないよー」
「こんな純愛したーい」
「あの頃の恋愛は美しかったわぁぁ」

総じて憧憬の念を抱くのだ。

ほとんど無条件に、反射的に憧れを抱いてしまう純愛。

今回は、果たして純愛とは、本当に憧れる価値のあるものなのかをクリアにしていきたい。

純愛の定義

まず、純愛について定義を確認する。

純愛とは、邪心のない、ひたむきな愛。純愛の定義としては、他に「その人のためなら自分の命を犠牲にしてもかまわないというような愛」「肉体関係を伴わない愛(プラトニック・ラブ)」「見返りを求めない愛(無償の愛)」などがある。

(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%94%E6%84%9B)

純愛にはどうやら、「邪心のない」ということが大事なようだ。

とはいえ、「自らの命を犠牲にしても」というのは、極端すぎる。自らの生命維持は、動物的本能であり、それを無視できるほどの事態は、純愛に溺れているというよりむしろ遺伝子異常なのではないかと思う。

また、肉体関係についても子孫繁栄・種の保存という、本能的な欲求を否定することになる。純愛がそれを凌駕しうるものだというのも、同様の理由から違和感を感じる。

ここではシンプルに、「『邪心=見返り』を求めない愛」と定義し、考えてみよう。

恋愛に求めるリターン

結婚を意識し始めた女性たちが恋愛をする際に念頭に置く「見返り」には、例えばこんなものがある。

  • ・パートナーが持つ経済力
  • ・高スペックなパートナーを獲得しているという他者からの羨望の眼差し
  • ・社会的地位の向上
  • ・パートナー依存でなくとも、自らの経済力が衰えないこと

どこぞの高慢オンナかと思われた方もいるかもしれない。

しかし、正直な自分に聞いてもらいたい。

経済力を無視できる独身女性はいないのではないだろうか? むしろ、この部分を無視して恋に走る友人を、蔑んだ目で見たことがあるのではないだろうか?

私たちは経済力を無視できる社会に住んでいない。だからそれを重視することははなにも残念なことではない。至極当然なことだ。

マズローの欲求5段階説

ここで考察にあたり、マズローの欲求5段階説に登場していただく。

マズローの欲求5段階説(wikipediaを基に編集部作成)

マズローの欲求5段階説(wikipediaを基に編集部作成)

人間の基本的な欲求は「5段階のピラミッド」のようになっていて、下位の欲求が満たされると、1段階上の欲求が生まれる。

この欲求5段階説にのっとれば、私たちの社会では、最も低次の「生理的欲求」と、次に低次の「安全欲求」が、経済力と密接に関係している。

経済力があればあるほど食事に困ることはないし、安全で強固な家で安心して暮らせるということには異論はないはずだ。

では、「純愛」は欲求5段階説でいうと、どの階層に当たるものなのだろうか。

「所属と愛の欲求」の「愛」というキーワードに引っ張られそうになるが、この段階は「必要と”されたい“」という自分主体での欲なので、いかんせん見返りを求めない純愛とは反する。「承認欲求」も同じだ。

よって「自己実現欲求」に近しいのだと考えられる。

しかし、今回この話をするうえで、この3段階の具体的にどこに属するかということは重要ではない。

大事なのは、いずれにせよ下位の欲求の「生理的欲求」「安全欲求」よりは上だということだ。

つまり、下位の欲求が満たされると、1段階上の欲求が生まれるのだとすれば、

〈経済力≒「生理的欲求」「安全欲求」〉

が満たされて初めて、

〈「自己実現欲求」≒純愛〉

が成立する。

先に私が感じた違和感とは、この式と矛盾するものだからだ。

純愛は、〈「自らの生命維持の欲求」「肉体関係への欲求」を放棄する(または厭わない)こと=「生理的欲求」「安全欲求」を放棄すること=経済力の向上、維持を求めないこと〉と、されている。

そもそも我々が恋愛し、結婚することは、大原則として「安全に生きる」「種の保存」のためなのだ。それなのに、

  • ・「生理的欲求」=食べる・寝る・ヤる=「自らの生命維持」「肉体関係への欲求」
  • ・「安全欲求」=経済的安定・良好な健康状態の維持・良い暮らし=経済力

この2つの欲求、もしくは欲求の存在を無視して高次の欲求を求めることは、人間として異常な状態ではないだろうか。

純愛のリスク

また、この欲望の図式が整理できると、あることに気づく。

果たして、これらの欲求全てを、一人の人間で満たそうとする必要はあるだろうか?

自身の「生理的欲求」、「安全欲求」を満たすうえで、それを一人の男性に完全に依存している状態はとてもリスキーである。

「なりたい自分になる」という高次の欲求を満たすべく、輝かしい人生を送っていたあなたは、ある日突然そのハシゴを外されるかもしれない。

そのハシゴが1つしかなければ、転落するしかない。また、この状態は相手に掛かる負担も大きい。ならば、もう1本のハシゴを、自ら築くでもいいが、第三者と築くでもよいはずだ。

不倫こそ……?

この記述を進めるにつれ、不倫について気づいてしまったことがある。

不倫をする人間の中には「不倫こそ純愛」という主張をするが、〈経済力≒「生理的欲求」「安全欲求」〉が満たされて初めて〈「自己実現欲求」≒純愛〉が成立するという前提に立てば、不倫こそ純愛の条件を満たしやすい環境であることになる。

下位の「生理的欲求」「生理的欲求」は、本来のパートナーで満たされている。そのため、それら見返りを求めることなく「尊厳欲求」「自己実現欲求」を満たすことにのめり込むことができる。

もし今後不倫している友人が「これは純愛だ!」とのたまったなら、その点に関しては理解を示してあげようと思う。

一方で、この役割分担がクリアになるからこそ、不倫されている側の人間の尊厳は放棄されているかと思うと心が痛む……。

よって、私は純愛には憧れない。

きっと学生時代を経て、現実を見据える能力を得たほとんどの女性たちは憧れないはずだとすら思っている。

それなのに、なんとなく「いいなー純愛したーい♡」などと、ありふれた常套句のような発言をしている人間は、自ら考えることを放棄してしまっていることに恐怖を覚えていただきたい。

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