問屋とは、生産者から商品を買い入れてスーパーや百貨店などの小売に卸す「仲介役」。いま、その仲介役を取っ払って小売と生産者が直接取引する「流通の効率化」の動きがある。コストも下げられるうえ、サプライチェーンの透明化にもつながる。
その中で、あくまでも問屋として突き進むのが「木本硝子」。従来から存在する切子のグラスだけでなく、時代に沿った新しくモダンなデザインの切子グラスをプロデュースし、注目を集めている。同社代表取締役・木本誠一さんに、問屋だからこその役目と力について尋ねた。
うちは問屋。生産設備も職人も抱えてません。その代わり、問屋だからこそのネットワークと情報を持っています。それを生かして、デザイナーと職人をつないでプロデュースを行っていますーーそうやって、商談でもどこでも言い切ってるんです。
そう話すのは、木本硝子代表取締役・木本誠一さん。創業昭和6年の硝子食器専門問屋を経営する。
同社が注目を集めているのは、さまざまなデザイナーと共同で開発した斬新なガラス製品の数々。
デザイナー・木下真一郎とコラボした黒の江戸切子「KUROCO」を皮切りに、プロダクトデザイナー・平瀬尋士デザインの黒の江戸切子「MOON」、梅野聡による水引がモチーフの「MIZUHIKI」、女優でありガラス造形作家でもある川上麻衣子デザインの「FLICKA」、ワインボトルをアップサイクルした「funew」など、次から次へと、斬新なガラス製品を送り出し、市場を驚かせている。
木本硝子は、もともと「問屋」。ガラス食器をメーカーから仕入れ、小売店に卸すのが仕事だ。松坂屋などの百貨店専属の問屋として始まり、そごう、長崎屋など全国の百貨店が卸先だった。
なぜ、これら取り組みが可能になったのか? それを知るには、時代の波を乗り切ってきた木本さんの大胆なチャレンジの歴史を、まず紹介しよう。
大胆なチャレンジの連続
木本誠一さんは、1990年に代表取締役に就任後、既存の百貨店とは「真反対のお客さま」ともいえる量販店との取引を開始し、攻勢に出た。
続けて、当時日本では限られた仕入れ先だったヨーロッパへも進出。ヨーロッパは、ベネチアングラス、ボヘミアクリスタルなどガラスの源流があり、工場も多い。木本さんは自らヨーロッパを訪ね、チェコスロバキア、ルーマニア、ポーランド、スロベニアなどの工場から、直接買い付けを行った。商社の何倍も早いスピードで取引が成立。新しい商品を次々と日本に持ち込んだ。
加えて、それら工場とのオリジナル製品の開発も始めた。「他の企業と同じ商品を取り扱うと、価格競争に飲み込まれる。しかし自社でしかできないオンリーワンの商品なら、その争いを避けられる」。
このとき、折しも景気悪化と増税が重なった。しかし、このヨーロッパ進出が、数多のガラス食器問屋が倒産していく中で、持ちこたえる要因になった。
私の見立てでは、問屋が潰れるというのは、売上が下がって潰れるのではない。商品調達ができなくなるから潰れる。問屋は自分でものを作っていない。なのにメーカーがなくなれば、卸先のニーズに応えたくても応えられない。
時代の逆風はチャンスになった。
ヨーロッパで生産した自社製品を生かし、いままでとは違うものを求めていた百貨店・小売店との取引を開拓していった。社員も4人から30人に増やし、卸先の拡大に奔走した。しかしーー
俺もそのとき若かったから、量販店も百貨店も、このままどんどん取引先を増やせば、日本のガラス業界、俺が全部獲れるかなって思っちゃったんだよね(笑)。
この上昇気流が「奈落の底へのスタートだった」とも振り返る。
百貨店を相手にしても利益は薄かった。社員を増やしたものの、「私のマネジメント能力も足りなかった」。
出血を止めるべく、大幅なリストラや業務整理へ。それを終えた2008年夏、ちょうどリーマン・ショックが起こった。
「問屋だからこそ」の力に気がついた
ギリギリで間に合いはしたが、景気はどん底。これからどうやって生き残るべきか?
加えて、これまで海外の工場でものづくりをしてきて、国内の工場・職人を潰してきたのではないかという、「負い目」というべき感情も、木本さんにはあった。
ならば原点に立ち返り、国内でのガラス商品を開発して、東京の地場産業を活性化させていこう。
そこで目をつけたのは、「デザイン」だった。
「伝統の技術、職人の心意気を守ろう」といえばみんな賛成する。でも若い女性に江戸切子を見せて「欲しい?」と聞いたら、「すごく手が込んでてたいへんなのは分かるけど、欲しくない」って言う。つまり、いまのライフスタイルに、デザインが合っていないんだな、と思った。
そこで外部のデザイナーを巻き込み、2年掛けて最初に作ったのが黒の江戸切子「KUROCO」だ。
「KUROCO」は第5回東京の伝統的工芸品チャレンジ大賞を受賞。これを機に、興味を持ったデザイナーたちが「自分もやりたい」と集まってきた。
そして木本さんの中に、確信が生まれた。
問屋だから「こういう商品なら、どこそこの工場。職人の誰それさん。いくらで作れる」というのが、固有名詞で分かる。お客さんもいるし、そのお客さんの都合も分かる。なら、私はプロデューサーになって、デザイナーと職人のチームを作り、売り先に持っていく役目をしたらいい。
早速、次々とデザイナーを巻き込み、プロデュースを開始。同時に、『LOFT』や『UNITED ARROWS』など、商品に合わせて新しい販路も開拓した。
人の目に触れる機会が増えるとみるみる好循環が生まれ、自動車メーカーなどの異業種からも「新しい取り組みをしたい」という声掛けも増えた。店舗装飾の相談などもあるという。
人の輪が広がれば広がるほど、可能性も増えていく。培ってきたネットワーク力が、ガラスの未来を広げている。
ガラスの未来を目指して
ここでガラスの歴史は、明治の富国強兵政策まで遡る。以来、都内は墨田区・江東区・江戸川区の川沿いを中心に、手作りのガラス工場が発展。切子など、加工の職人も周辺に集まり、当時は数千にも上る企業が川沿いに集まっていた。
しかし1916年、アメリカで開発された自動製びん機が日本にも導入され、大量生産が可能に。手作りならば、シンプルな300mlガラスコップを4人一組で1日500個を作る。それが量産だと、1日で約5万個も作ることができるほどのスピード。商品の品質も、より均一に仕上がる。都内の工場は一挙に倒産を始め、現在都内に残る手作りのガラス工場は3社のみ。切子職人も、約百名ほどという。
そうした状況の中、今後の木本硝子の目標を尋ねた。
都内のガラス工場と、ガラスに関係する職人の仕事が増え、後継者が増えればいい。そのために単価を上げなければいけない。我々はそのために努力していくのみ。これからも、問屋ならではのネットワークを生かして、国内外・業界を超えて人をつなぎ、販路をつないでいきます。
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