筆者は幼少期の5年間を、ドイツのハンブルグという街で過ごした。2016年の今年、帰国して25年が経つ。この間にもいくつかの国へ訪れ、人生のハイライトに数えることのできるすばらしい経験をし、母国・日本でたくさんの時間を過ごしてきたが、いまもハンブルグは、私にとって特別な場所として存在し続けている。
3年前から、長い友人である江崎絢子がこの街で暮らしている。私は両親と弟と暮らし、彼女は夫と息子と。30年という時の流れを経て、ハンブルクという街はそれぞれの目にどう映るのだろう? そこで、彼女を誘ってこの連載を書くに至った。
第2回目は、9歳でドイツから帰国した筆者が感じたドイツと日本のギャップ。そこから見つけた「本当の経験」を、ハンブルグでの生活を振り返りながら探っていく。
1つの街でも、その表情は見る人によって違うだろうーーもしこれを読んでくださるあなたがいつかハンブルグを訪ねたとき、あなたの目に映ったハンブルグもぜひ聞かせてほしい。
週末と旅行は一番好きな時間
家族で過ごす週末と旅行は、ハンブルグ生活の中で一番色濃い記憶として残っている。当時、デパートやスーパーマーケットなどのお店は、土曜日の14時で閉まってしまうため、午前中に車で中心地に買い物へ出かけ、午後は散歩やカフェでお茶をして過ごした。ランチは、チーズとハムがこれでもかと香るサンドイッチか塩辛いピザ(ドイツの味つけは塩分多め)、そしてコカコーラ。家では味わえない食事ができるのを、楽しみにしていた。
ドイツの食は、とてもシンプルだ。パン、ソーセージ、コーヒー、ビールなど、素材の味が生かされたものが多く、とてもおいしい。パン屋さんは、日本のコンビニエンスストアのようになくてはならない存在でいたるところにある。母はふだん日本料理を作っていたが、材料はスーパーマーケットのほかに、決まった曜日に広場で開かれる「マルクト」という市場でも買いものをしていた。マルクトでは肉や魚、野菜、果物から花までなんでも揃う。
ドイツの夕食は「カルトエッセン」と言われることがある。直訳すれば「冷たい料理」という意味で、火を使わない料理を指す。一日の食事のうち昼食の比重が大きいため、夜はあっさり簡単にという趣旨も。母が夕方、カレーや焼き魚を作っていると、アパートの住人がその匂いに驚き「どうしたの?!」と訪ねてきたこともあった。
旅先は、太陽溢れるイタリアへ
ドイツ人は休暇好きと知られているが、2週間〜1カ月旅行に出かけ、贅沢な時間を過ごすというよりは、いつもと違う土地でふだんの生活スタイルを楽しむという感じだ。
我が家も、春のイースター休暇(クリスマスと並ぶキリスト教の重要な祝祭日)の4日間、夏の2週間、クリスマス休暇の1週間と、毎年2〜3回は旅行へ。ヨーロッパは陸続きなので、自動車、バス、飛行機で海外へ簡単に行くことができ、イタリアやフランス、スペイン、スイスなど南ヨーロッパを訪れた。地図を見ながら、街を歩き、建築物を眺め、食を味わい、たくさんの土地の人びとに出迎えられた。
ハンブルグは曇りの日が多いこともあり、天気が良くて料理もおいしく、人も明るいイタリアは、両親のお気に入りだった。ローマ、ミラノ、フィレンツェ、ベネチア、ソレント、シシリアと何度も訪れ、我が家では毎週土曜日がイタリア料理とワインのディナーになったほど(現在も継続中)。
「その土地を知るためには歩く」という旅のスタイルも、私と弟に引き継がれ、大学時代は二人ともバックパッカーとなった。
優しく、ホスピタリィ溢れるハンブルグの人びと
ハンブルグでの時間を特別なものにしている大きな要因のもう一つは、そこで出会った人びとだ。
引っ越しの挨拶に行ったら、「ウェルカム!」とシャンパンを空けてお祝いをしてくれ、家の中を案内してくれた同じアパートの住人。日本人が珍しい地域で子ども二人を育てる母を見て、声を掛け、夕食に招待してくれたご近所さん。駐在中だけでなく、私や弟、両親がハンブルグを再訪した際にも、いつも会う時間を作ってくれ、ハンブルグの街を案内しながら、歴史や人生について語ってくれた父の現地での先輩。怒るときは怒る幼稚園の先生や、お菓子を食べたいと駄々をこねる私に「これにしときなよ」と人参をくれたマルクトの野菜売りのおじさん。
みんな、正直にものを言うけど気持ちが優しく、ホスピタリティに溢れる人ばかりだった。
異なる文化に生きることの意味
「違い」というハードルを超えた、フェアでポジティブな彼らの人としてのあり方は、私たちの生活を支え、私の価値観にも大きな影響を与えた。
9歳でドイツから帰国した後、大学生くらいまで私の中に存在した「ギャップ(違和感)」は、日本とドイツでの生活の違いからきている。ハンブルグで過ごした時間が自分の記憶がスタートした時期と重なっていたため、考え方や感じ方のベースが、ハンブルグでの経験に大きく影響を受けているからだろう。
帰国後、日本で私が見た景色や人びとは、本来であれば「故郷=ルーツ」であるはずなのに、当時の私にとっては馴染みのない新しい文化であり、批判の対象だった。ハンブルグでの生活を基準に日本の生活をジャッジすることは、異なる文化で生活した経験を持つ帰国子女としての誇りである一方、傲慢な態度でもあったと思う。
「ドイツに住んでいた意味ってこれなの?」ーーいつまでも前に進まない自分に苛立つ日々は、大学に入っても続いた。
この考え方から脱け出すきっかけになったのは、大学2年生の夏のハンブルグ滞在だった。将来に行き詰まり、自分の育った場所(ルーツ)を見に行きたいと、11年ぶりにハンブルグを訪れたのだ。
街はどう変わっているだろう? しかし住んでいた家の周りや公園、幼稚園や小学校、街の中心の風景など、ほとんどが当時のまま。変わったのは、背が伸びて高くなった私の目線だけだった。
それに気づいたとき、「こういうまっすぐな目で日本を見ていただろうか?」と思った。世界の流行をいち早く取り入れ、ジャパニーズブランドを作り出していく東京のエネルギー。山や田んぼ、川などの自然に溢れ、四季の変化が食や遊びなどに直結している田舎のシンプルさ。言葉にすることは控えめだが、信念を持ち生きている人びと。
「日本も良いじゃん」と思えるところはいっぱいあるのに、けっきょくドイツとの違いばかりを気にし、フェアに見ていなかっただけだった。
「それぞれの場所にあるそれぞれの文化や良さ。ときにそれらと自分が大切にしたいことが異なっても良い」。この発見が、ドイツと日本という異なる場所で生活したことで私が得た「本当の経験」だった。
たくさんのルーツを持つ生き方
33歳。いま私は両親がハンブルグで生活をしていたときと同じくらいの年齢になった。結婚、出産、昇進、転勤など、自分自身や周りに起きている仕事や家族の変化は、多くの30代が人生の中で迎える転換期の一つではないかと思う。このステージでの出来事や人との出会いは、その後の生き方や価値観に大きな影響を与え、これまでの自分のあり方をポジティブに塗り替えてくれるチャンスを持っていると感じている。
ハンブルグは、アイデンティティのルーツとなる場所。30代、人生の転換期となりうる時間をどこで過ごすのかはまだ分からないが、その場所(ルーツ)を見つけたとき、きっとまたハンブルグを訪れたいと思うだろう。
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