筆者は幼少期の5年間を、ドイツのハンブルグという街で過ごした。2016年の今年、帰国して25年が経つ。この間にもいくつかの国へ訪れ、人生のハイライトに数えることのできるすばらしい経験をし、母国・日本でたくさんの時間を過ごしてきたが、いまもハンブルグは、私にとって特別な場所として存在し続けている。
3年前から、長い友人である江崎絢子がこの街で暮らしている。私は両親と弟と暮らし、彼女は夫と息子と。30年という時の流れを経て、ハンブルクという街はそれぞれの目にどう映るのだろう? そこで、彼女を誘ってこの連載を書くに至った。
1つの街でも、その表情は見る人によって違うだろうーーもしこれを読んでくださるあなたがいつかハンブルグを訪ねたとき、あなたの目に映ったハンブルグもぜひ聞かせてほしい。
父の駐在でハンブルグへ。
「ハンブルグ」という街を知っている人は、どれくらいいるだろうか?
ドイツの北。北海へ注ぐエルベ川流域の港町として古くより貿易で栄えたハンブルグは、いまもドイツ最大の港湾商業都市だ。大きく悠々としたエルベ川、その上を行き交う船、コンテナの集まる港、アルスター湖を囲む中心街など、港によって発展を遂げた街らしい魅力がある。ビートルズがデビュー前に下積み時代を過ごした場所といわれると、ピンとくる人がいるかもしれない。
私は1985年から5年間、幼少期をこの街で過ごした。4歳の誕生日を翌月に控えた夏に、当時光学機器メーカーで働いていた父(当時35歳)の駐在で、母(32歳)と3つ下の弟(0歳)とハンブルグに引っ越してきた。
大きな公園と川に囲まれた、静かな場所にある家
「家族といっしょに過ごした、豊かな時間」。これがハンブルグでの5年間を表す言葉だと思う。
私の家は、中心地から離れた、閑静な住宅街にあった。会社の先輩に「いい家がある」と紹介された父が一目で気に入り、住むことを決めた。3階建てのアパートの1階、大きな窓のリビングルームのある白壁の2LDK。家のすぐ隣にはイエーニッシュパークという広大な敷地の公園と森があった。公園からはエルベ川が見下ろせ、ときには大型客船が目に入ってきた。
夏は緑の芝生が広がり、太陽が出ると日光浴で人が溢れた。冬は一面真っ白な雪に覆われ、父の引っ張るソリに弟と乗り、雪の上を散歩した。公園はどこまでも続いていて、途中から緑深い森に変わる。葉が落ちたふかふかの土を歩いたり、木登りにぴったりの大木によじ登ったりと、ちょっとした冒険気分を味わえた。
現地の幼稚園で出会った少し怖そうな、でも優しい先生たち
ハンブルグでの生活が始まってまもなく、私は家から20分くらいの場所にある幼稚園に入った。弟もすぐに通うようになり、園児には現地の子どものほか、私たちのような駐在園児(?)がたくさんいた。毎朝8時に出勤する父の車で送られ、お昼過ぎに母が迎えに来た。家から持ってきたフリューシュトゥック(朝食のこと)を食べ、室内で積み木やお絵描き、歌、または敷地の外で追いかけっこや砂いじりなど、自分の好きなことをして過ごした。その後はお散歩へ。エルベ川沿いを歩き、途中の売店で食べるアイスクリームが楽しみだった。
幼稚園の先生達はちょっと怖そうだけど、度量のある女性ばかり。背が高く、声が大きかった私は目につきやすい存在だったのか、日本人の園児たちからちょっとしたからかいの対象になることがあった。当時は理由が分からず、居心地の悪さだけを感じていたが、そんな私にとって先生は頼りになる存在だった。「Nein(ナイン、『No』の意)。リエに謝りなさい」。フェアではないことをしっかりと相手に伝える姿勢は、いまの自分にも影響を与えている。
小中一貫の日本人小学校。転入・転校で入れ替わるクラスメイト
幼稚園を卒業後、私は日本人学校へ入学。バスを乗り継ぎ、車や人が行き交う賑やかな地域を通り、片道1時間弱かけて通学した。
日本人学校には中学校も併設されていたが、生徒数は日本と比べると圧倒的に少なかった。体育祭や郊外でのオリエンテーリングなどの学校行事は、中学生の先輩たちもいっしょ。自分より年上の存在は頼もしく、姉のように良くしてくれる先輩もいた。私の学年は生徒数が多く、学校で唯一2クラスあった。入学から卒業までみんないっしょということはほぼなく、転入と転校は日常茶飯事。誰かが帰国するときは、みんなで空港へ見送りに行った。
帰国。日本で過ごす「今」を愛せない日々
1991年、小学校3年生の夏に私は帰国した。
最初に泊まった新宿のホテルの窓から見た灰色の風景に始まり、低い天井に狭い部屋の我が家、人が多く緑の少ない街。学校では、朝礼、給食、掃除、休み時間から授業まで、全員で同じことに取り組む集団行動のプライオリティの高さとその雰囲気……日本とドイツの違いに戸惑った。
そんな窮屈さから生まれた「ドイツのほうが良い」という考えは長く続き、しだいに一つの問いが浮かぶようになったーー日本人として生まれ、日本に住んでいるのに、ここで生活する「いま」になぜ愛着を持てないのか?
20歳の夏。進むべき道が見えず、大学へ行かなくなっていた私は、ある日「自分が育った場所を見に行きたい」とふと思った。いま思えばただの現実逃避だが、この11年ぶりの再訪はハンブルグでの生活が私に与えてくれた本当の「経験」を気づかせてくれるきっかけになった。
次回は、その転機についてハンブルグで出会った人びととともに紹介する。
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